ゴーストバスターズな鳴保
週はじめの月曜日、ホームルームを終えたばかりの高等部一年S組はどこか浮き立っていた。今週から学園祭準備期間に突入し、午前中ですべての授業が終わったのだ。展示担当のS組では、縁日をテーマに射的や輪投を自作する予定だ。装飾班、ゲーム班と各々チームにわかれた生徒たちが、楽しげに机の島を形成している。
そんななか、保科はひとり通学バッグに教科書やノートを詰め込み、帰り支度を急いでいた。ホームルームが思いのほか長引いてしまい、実行委員会に遅れそうなのだ。
「宗四郎! 今日、晩飯は?」
教室を出る手前で、寮の隣室に住む友人、来栖に呼び止められる。
「たぶん遅なるから、さき食べてええよ」
「オッケー。連絡くれたら購買でなんか買っとくけど」
「おお、ありがとう。ラインするわ」
んじゃ頑張れよ、と手を振る来栖にひとつうなずいて、保科は足早に教室をあとにした。
二階にある一年S組から、実行委員会が使っている四階の端にある空き教室までは結構な距離がある。
保科は人けのない廊下を小走りで抜けて、三階へつづく階段を上がっていく。踊り場にさしかかったちょうどそのとき、上階から来た男と出会い頭にぶつかりそうになった。
「わっ……すみま」
謝罪を口にしかけて、保科は息を呑む。一メートルにも満たない距離で、二人の視線が絡んだ。
「な――」
思わず名前を呼ぼうとしたが、できなかった。男があからさまに顔を背けたからだ。勘違いのしようもない、あからさまな拒絶に、保科の顔がさっと青ざめる。
男は保科を顧みることなくさっと横を通り過ぎると、なにごともなかったように階段を下りていく。遠ざかっていく規則的な足音に、保科はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
▽
このところ保科の脳内を占拠し、悩みの種となっている男がいる。高等部二年の先輩で、学園でその名を知らぬ者はいないほどの有名人――鳴海弦だ。
保科が通う私立出雲学園は兵庫の丹波篠山にある、初等部から大学までを備えた男女共学の一貫教育校だ。県内でも指折りの進学校であり、特色は自由な校風ながら中、高の六年間が全寮制であること。大学は外部に進学する者も多いが、高等部まではほぼ持ち上がりで面子が変わらない。保科も初等部から出雲学園に通い、エスカレーター式に高等部まで進学してきた。その点、鳴海は特にめずらしい高等部からの編入生だった。
鳴海の名が学園中に知れ渡るきっかけとなったのは、入学式での新入生代表挨拶だ。
なめらかで淀みのない滑舌、落ち着いた低音。誰もが感心し、うっとりと聞き耳を立てていた挨拶の最後、鳴海が名乗ったその瞬間に式場はどよめきに包まれた。多くの者が、その名に聞き覚えがあったのだ。
〝鳴海弦――通称、弦くん〟
土曜九時のファミリー劇場枠で放送されていたテレビドラマ『ギブミーアチャンス』、略してギブチャン。
再婚後まもなく妻を不慮の事故で亡くし、シングルファザーとなった元アイドルの義父と、三人の連れ子たちのすれ違いや葛藤、家族の再生を描いたヒューマンドラマである。平均視聴率が三十%を超え、社会現象にもなったこの大ヒット作に弦くんが出演したのは、弦くんが齢六歳のころだった。
三人兄弟の末っ子役だった弦くんは、六歳ながらどこか陰のある役柄と、オフショットで見せる朗らかな愛くるしさのギャップがたちまちお茶の間で人気を博し、人々を虜にした。最終回で見せた、感情をむき出しにしてわんわん泣く姿に、もらい泣きした視聴者も多かったことだろう。
ギブチャンをきっかけに、天才子役としてスターへの階段を駆け上がった弦くんは、その後も映画やドラマにひっきりなしに出演し、数多くのヒット作に恵まれた。役者だけでなくコマーシャルやバラエティ、歌手デビューなど、それはもうテレビでその姿を目にしない日はないほどの活躍ぶりだった。
しかしそれからわずか数年後、十一歳になった弦くんは、徐々に仕事をセーブするようになる。途切れることなく出演していたドラマにも出なくなると、まことしやかに引退の噂が囁かれはじめた。事務所はかたくなに沈黙を貫いたが、Xデーは弦くんが十二歳になる直前、最後のテレビコマーシャルの契約が終了したタイミングでやってきた。
ついに、事務所から弦くんの芸能界引退が発表されたのである。
理由は、学業に専念するため。さまざまな憶測が飛び交ったが、弦くん自身が引退について語ることはついぞなかった。そうして、発表から一度も公に姿を現すことなく、弦くんは惜しまれつつ芸能界を去っていった。きよい引退だった。
そんな天才子役の弦くんが、約三年の月日を経て出雲学園高等部に編入してきたのである。学園中を轟かせたその衝撃的なビッグニュースは、当時中等部三年だった保科のもとにももちろん届いた。
「なぁ、ビッグニュース! 聞いた? 元子役の弦くんが高等部に編入してきたって」
「知ってる知ってる。弦くんって本名やってんな」
「ギブチャン見てたな〜。あとあれ怪獣体操。俺らも運動会で踊ったよな」
「あったな〜、怪獣体操」
「医進のSSってほんまなん?」
「らしいで」
「まじか。編入でSSはやばい」
「でもなんでイズガクにしたんやろな。医進の高校なんていくらでもあるやん。うちは全寮制やし」
「それな〜。てか、弦くんって関西出身やっけ?」
「知らん、標準語やった気するけど」
「宗四郎はもう会えたんか? 好きやったやろ、弦くん」
それまであえて会話に混ざらず読書に耽るフリをしていた保科は、突然話題を振られてぎくりと強張った。「おとんに言うたら会わせてもらえるんちゃうん」とべつの級友がつづける。シンと静まり返った教室で顔をあげれば、多くの目が興味津々といった様子でこちらを注視していた。
――そんなわけないやん。
保科は読んでいたミステリー小説に視線を戻すと、
「会うてへんよ。昔の話やし、親父が校長でも高等部生に会う機会なんてそうそうあらへんわ」
と、つとめてマイペースに答えた。たしかに保科の父親は高等部の校長をつとめているが、それとこれとは話がべつだ。
そりゃそうか、校舎ちゃうしなー、と複数の声がして、クラスに騒めきが戻ってくる。自分から興味がそれたことに、保科は人知れず安堵の息をはいた。傍にいた友人には「あいかわらず剣術と読書以外は冷めとるなー」とつっこまれたが、決してそういうわけではない。
クラスメイトには明かしていないが、保科はいまでも筋金入りの熱狂的な弦くんオタクだ。自分でも強火ガチ勢だと自負するほどに。
弦くんの出演作はもちろんすべて円盤、データで所持しているし、雑誌や新聞の小さな記事にいたるまで収集してファイリングしてある。お気に入りの作品は、何度もくり返し見ては、演出や台詞まで丸暗記した。特に好きなのはやはりギブチャンで、このときの弦くんの泣きの演技は、後世に残すべき快演だったと真剣に思っている。
弦くんはどんな役柄でも自分のものにし、キャラクターに命を吹き込む。ひとたび役者のスイッチが入れば、そこにいるのは弦くんではなく、物語に生きるひとりの人だ。保科はそんな弦くんに強く憧れ、瞬く間に彼の虜になった。大好きだった。引退から三年が経っても、あのころの気持ちは少しも色褪せていない。
だからこそダメなものはダメなのだ。
同じ高等部に上がれば、校内でお見かけする機会があるかもしれない。けれど決して取り乱すな、不用意に近づくことなかれ、と肝に銘じる。いまは弦くんも勉学に励む一人の高校生だ。こちらの勝手な思慕で学園生活を邪魔してはならない。彼が高等部に編入したとの一報を耳にしたその日、保科はオタクとしての敗れぬ誓いを立てたのだった。
しかし、保科のそんな固い誓いと未来予想図は見事にはずれ、大幅な軌道修正をする羽目になる。
事件は中等部卒業式の翌日、高等部寮へ引っ越したその日に起こった。
卒業式の翌日は、帰省する者などで一時的に寮が閑散とする。保科は人が少ないうちにさっさと引っ越しを済ませてしまおうと、渋る母親をなだめて春の帰省を見送ることにした。本音を言えば、実家にいるであろうウマの合わない長兄に会いたくなかったのである。
学園の敷地内にある高等部寮は、中等部寮から歩いて十分弱の場所に位置する。鉄筋コンクリート造の五階建てで、男子寮は三棟。保科にあてがわれたのは、第三寮一階の117号室で、角部屋のひとつ手前の部屋だった。角部屋の主はわからないが、反対側にあたるもう一方の隣室は友人来栖の部屋なので、ずいぶん気がラクだ。おそらく一階はすべて新一年生の部屋になるのだろう。
四人部屋で二段ベッド生活だった中等部とは違い、高等部では個人ごとに五畳一間の個室が与えられる。保科はこのときを心待ちにしていた。友人との共同生活も悪くはないが、誰の目も気にせず、のんびりと自由に過ごす時間が保科は昔から好きだった。それにくわえて、一人部屋を心待ちにしていた理由はもうひとつある。
これで放課後に行われる極秘の課外授業に、参加しやすくなる。
保科家は室町より代々つづく剣術の名家である、というのは誰もが知るところであり、間違いではない。だが、それは保科家を言い表すうちのごく一部でしかない。包み隠さずに言うならば、保科家は剣術の家でありながら、世に仇なす悪霊を祓除する裏稼業を生業にしている――いわゆる除霊師の家系だった。
現代日本において、原因不明の不審死は年間十五万件にも及ぶ。公にはされていないが、じつはそのほとんどは悪霊に起因したものだ。
霊を視認できる人間はほんの一握りで、悪霊を祓除できる者、除霊師となるとその数はさらにぐんと減る。一歩間違えれば死に直結する仕事だ。どんなに待遇がよくてもなり手は少なく、除霊師は全国に数百人もいない。
年齢が満十八となり除霊師としての資格を得た者は、内閣総理大臣直属の対悪霊討伐組織に所属することになる。一応は国家公務員という肩書きをもつものの、その存在はあくまで非公表だ。視えない者が大多数を占める世である以上、除霊に対するイメージは決していいとは言えず、なにかと不信感を抱く者も多い。事を可及的速やかに処理するには、苦肉の策ながら、除霊師が素性を隠して任務を遂行するほかなかった。
保科が通う出雲学園もまた表向きは普通の一貫教育校だが、そのじつ、除霊師とその候補生のための教育、研究機関というもうひとつの顔を持っている。全校生徒の約一%ではあるが、危険が伴う除霊師の子息や息女を結界がはられた学園であずかり、除霊にまつわる様々を教え、導き、育てる役割を担っているのだ。
極秘の課外授業は除霊にまつわる座学や実技が主で、通常は初等部、中等部、高等部と課程にわかれて行われる。四月からは保科もついに最高位の高等部クラスだ。出雲学園の生徒は教育の一環で特別に除霊行為が許されているが、本来除霊師の資格が得られるのは十八歳からと定められている。それまで残り三年。今後はよりいっそう本格的な実技訓練が増えることになる。
適当に荷ほどきを終えた保科は、シーツを敷いたばかりのベッドにごろんと横になった。開け放った窓からは春の風が流れ込み、ひらひらとカーテンを揺らしている。時刻は午後の二時をすぎたところだ。夕食までは特にすることもないので、このまま眠ってしまうのもいい。
――授業がはじまったら、さっそく刀伐術5式を試さんとなぁ。
天井の模様を追いながらぼんやりと術の型をイメージしているうちに、本当に寝落ちてしまったらしい。保科を浅い眠りから叩き起こしたのは、隣の角部屋からのただならぬ異音だった。
バチバチという電撃音と、その直後のなにかが床に倒れる音。悪霊の気はないが、明らかに人智を超えたなにかが起こっていると直感する。
保科は大慌てで部屋を飛び出すと、構わず隣室のドアをノックした。その際、ちらりと確認した表札に目を疑う。
〝118 鳴海弦〟
鳴海!? 弦くん? な、なんで? いや、いまはそんなことよりも安否確認や――。
しかしブザーを鳴らしてもノックをしても、部屋からは一向に応答が返ってこない。焦れて思わずドアノブに手をかければ、施錠がされていなかったらしいドアはガチャリと抵抗なく開いた。保科はふぅと息をはきだし、意を決して中を覗き込む。
「すみません、隣室の保科です……っ、大丈夫ですか!?」
電気の消えた真っ暗な室内。その部屋の中央に、うつ向けで大の字に倒れている男の姿が見えた。保科は驚愕し、男のもとに駆け寄る。閉め切られていたカーテンを全開にし、傍に屈んで声をかける。
「大丈夫ですか?」
「うぅ」
呼びかけに男の腕がぴくりと動いて、うめき声がもれた。よかった、ひとまず意識はある。
「起き上がれますか? どこか痛むところは?」
「てて……あぁ、いや、大丈夫」
矢継ぎ早に問うと男がのそりと半身を起こす。目もとを覆い隠すほどの長い前髪の隙間から、大きな瞳が眩しそうに保科を見た。窓から差し込む西陽を受けて、躑躅の花弁のような色がキラキラと輝く。保科はついつい見惚れ、言葉を失った。
弦くんだ。テレビ越しに、紙面越しに何度も見たあの目だ。
その圧倒的な美しさに目をそらすこともできず、顔が火照ったように熱くなってくる。
「よ、よかったです。勝手に入ってしもてすみませんでした。ものすごい音がしたので……僕は、隣室の、117号室に越してきました。四月から高等部一年になる保科です」
「……そうか、保科か。その、驚かせてすまなかったな。ボクは二年の鳴海だ。電球を換えようとしていたんだが、どうも踏み外したらしい」
やはり目の前の男は鳴海――あの弦くんだった。
待って待って嘘やろどうしよう早々に誓いを破ってしもたやん、破れぬ誓いやのに。同じ空間に弦くんがおる。弦くんがこっち見てる。目、綺麗やな。声も低くなっとるし、ていうか同じ空気を吸ってしもたどないしよう!
保科は心のなかで十年分の感情と葛藤を爆発させながら、平静を装って鳴海の視線の先を追う。そこにはたしかに椅子が倒れていた。大した高さではないが、とはいえ打ち所が悪いと大変なことになる。痛みはなくとも侮れない。
「いまのところ、どこにも痛みはないんですよね。目の前がチカチカするとか、視界の異常もないですか」
「ないな」
「それならひとまず安心ですけど……頭を打っていると怖いので、念のため医務室で診てもらってください」
「そうだな、わかった。あとで行ってみる」
「……僕から言われんでも、鳴海先輩はSSでしたね」
「え? ああ、まあな」
鳴海が、よっこらせ、と床に胡座をかく。
「保科」
鳴海があらためて保科を呼ぶ。その声は保科には届いていなかった。鳴海が起き上がったことで、それまで意識していなかった全身に目がいってしまい、完全に意識を持っていかれてしまったのだ。
目の前の鳴海は、胸の中央にでかでかと「誠意」と書かれたよれよれの白いTシャツに、色褪せたジャージのハーフパンツという出立ちで、メッシュなのだろうか、前髪の内側が淡いピンク色に染まっていた。混乱でいまのいままで気がつかなかったが、部屋にはエナジードリンクの空き缶やゴミ袋が散乱し、壁沿いに某大手通販サイトの段ボール箱が山積みになっている。
――弦くんは弦くんやけど、弦くんやない。いやこの人は弦くんやけど鳴海先輩で……あかん、わからんなってきた。
「おい、保科」
「……」
「聞いているのか、保科」
「……」
「おーい、保科くーん」
「うわああっ! あ、スミマセン」
耳もとで名前を呼ばれて、ようやく保科は我に返った。鳴海はぽかんとしたあと、「おかしなやつだな」と、相好を崩してくつくつと笑う。その顔が思いのほか子どもっぽく、あのころの弦くんのままで、保科の心臓が縮こまるようにきゅうっと音を立てる。苦しい。これまで感じたことのない、言葉にならない感情に困惑していると、目の前の鳴海がふと真剣な表情になった。
「あのな、保科。ひとつ頼みがある」
「頼み?」
「そうだ。その……今日ここで見聞きしたことは他言せず、どうか内密にしておいてくれないか」
頼む、と言って鳴海が顔の前で手を合わせる。保科はというとパチパチと瞬きをくり返し、なんやそんなことか、と拍子抜けしていた。だが鳴海がそう思うのも無理はないと、すぐに考えをあらためる。鳴海は元芸能人で、いまもなお有名人だ。保科には想像もつかないくらいの複雑な事情があるのだろう。プライベートは知られたくなかったのかもしれない。誠意Tシャツに散乱したエナドリ、ダン箱の山には正直保科も驚いた。鳴海にとっては些細な日常でも、ひとたび流出すれば恰好のネタになりかねない。
そう考えると、真剣に頼み込んでくる鳴海が少し切なくも思えた。
「わかりました。誰にも言いません」
保科が告げると、鳴海はホッとしたように表情をゆるめた。申し訳なさそうでもあり、しゅんとした姿が叱られた子どものようにも見える。
「悪いな。恩に着る」
「いやそんな、大袈裟ですよ。安心してください。僕だけの秘密にしときますから」
どうか心配などせず、安心してください。保科がにっこり笑うと、鳴海の瞳が大きく見開かれた。なんか変なこと言うてしもたかな、とおそるおそるうかがうと、鳴海はぎくりとしたように目を伏せた。顔を真っ赤にしながら、なにか言いたげにもごもごと口元を動かしている。保科は鳴海が口を開くのをじっと待った。鳴海はチラチラと保科を見ていたが、やがて蚊の鳴くような声でもう一度つぶやいた。
「……ありがとう、保科。恩に着るよ」
これが保科と鳴海の、高等部寮での出会いの全容である。
その後も鳴海はなぜか二年生のフロアには引っ越さずに、保科の隣の角部屋を使いつづけているが、互いの部屋を行き来したのは後にも先にも春の日のあの一度きりだ。
理由はわからないが、あれ以来、保科は鳴海から徹底的に避けられていた。
なにか気に障ることでもしたのだろうか。プライベートにずけずけと入り込んだのが、やはりだめだったのか。
理由を知りたいけれど、校内で声をかけようにも目が合えばそらされ、逃げられ、話をするどころではない。そもそも近づくことすら抵抗のある保科が、自ら鳴海の部屋を訪ねるなどできるはずもなかった。行ったところで、きっと居留守を使われて終わりのような気もする。保科だって、これ以上むやみやたらに傷つきたくはない。
あの日から気がつけば二ヶ月あまり。五月になっても以前として状況は好転せず、保科と鳴海の関係は「お隣さん」という近くて永遠に遠い距離のまま、こう着状態がつづいていた。
▽
「実行委員会からのお知らせです。このあと、十八時三十分より後夜祭のセレモニーを執り行います。まだ校内に残っている生徒は、すみやかに第一グラウンドに集合してください。提灯はグラウンドの受付で配っています。一人一台かならず受け取るようにしてください。くり返します――」
五月末の日曜日。
学園祭最終日をしめくくる後夜祭のセレモニーは、高等部の在校生全員参加のメインイベントだ。校内放送のミッションを終えた保科は、休む暇もなく校内を四方八方に走りまわり、残っている生徒たちに声をかけていく。校内アナウンスと生徒の誘導、これが学園祭実行委員会に所属し、主に後夜祭を担当している保科の本日最後の仕事だった。
「保科です。校内の生徒の誘導は完了しました。ええ、はい。僕も向かいます」
グラウンド担当の先輩へ報告を終えたところで、ようやく一息つく。開始まで残り十分を切っていたが、及第点だろう。なんとか無事に間に合いそうだ。
本来は誘導が終わり次第、保科もグラウンドに向かう予定だったが、朝から走り回っていたせいか、なんだかひどく身体が怠い。医務室へ行くほどではないが、とりあえずどこかで休みたい。
自然と足が向かったのは、四階にある実行委員会の控え室だった。
他の委員会の面々はセレモニーに参加しているのだろう。控え室には誰もおらず、荷物だけが取り残されていた。
保科は電気を消し、パイプ椅子を窓際へ移動させて腰を下ろす。そのころにはすっかりサボる気分になっていた。委員会のやるべき仕事は終えたし、ここからでも一応参加したことにはなるだろう、といいように考える。
セレモニーの最後には、屋上から花火が上がる予定だが、あいにくここからは見えそうにない。眼下にはキャンプファイヤーを中心に、提灯を持って大きな輪を成す生徒たちの姿が見える。いつも過ごしている学舎のはずなのに、無数の灯りが、どこか非日常で幻想的な光景を浮かび上がらせていた。
『高等部の学園祭セレモニーで、打ち上げ花火が上がった瞬間にキスをしたカップルは、生涯縁が結ばれて幸せになれるらしいよ』
中等部のころ、クラスの女子生徒が嬉々として話していた学園の七不思議をふと思いだした。はたして、このなかの何組が七不思議とやらを実践するのだろうか。いや、先生もおるし、あんな公衆の面前でキスはさすがに……。
保科がうつらうつらとしながら、提灯のゆらめきを眺めていたときだった。控え室のドアが無遠慮に開いて、何者かが室内に転がり込んできた。保科はぎょっとしたが、つぎの瞬間には、条件反射で攻撃に備えた構えをとる。
「ハァハァ、くそッ」
突然の侵入者は、隠れるようにしゃがみ込むと悪態をついた。ここまで走ってきたのだろう。息が荒い。うしろ姿なのではっきりとはわからないが、その声には聞き覚えがあった。
「あ、あの」
保科は静かに構えを解き、おそるおそる声をかける。侵入者が「わっ!」と飛び上がったので、その反応に保科もまた驚いて飛び上がる。侵入者がゆっくりと保科を見て、目をしばたたいた。
「あ、れ……保科?」
「鳴海先輩?」
二人の声がきれいに重なる。
保科が思ったとおり、目の前の人物は鳴海弦その人であった。
「あぁ、やっぱり保科か……こんなところでなにをしているんだ」
保科のいる窓際へ近寄ってきた鳴海は、咎めるような口調で声を落とした。いましがた大声で飛び上がっていた人と同一人物とは思えない。思わず、鳴海先輩こそこんなところにいていいんですか? と反論したくなったが、ぐっと飲み込む。
「えっと。僕、実行委員でセレモニーのアナウンスと誘導を担当してるんです。さっきまで校内の見回りをしてたんですけど、気分が悪なってしもて。ここで……控え室で休んでました」
「控え室? あぁ、ここ、実行委員の控え室か。どおりで」
鳴海がキョロキョロとあたりを見まわす。それから視線を保科に戻すと「体調がよくないなら、医務室へ行った方がいいんじゃないのか」とぼそりとつぶやいた。
気のせいかもしれないが、鳴海から気遣ってもらえたような気がして、尖っていた保科の気持ちがほんの少し和らぐ。
「ええ、そうですね。でもちょっと休んだらだいぶよくなりました……鳴海先輩はどうして」
「いや、ちょっとな。煩わしいものから逃げてきた」
「煩わしいもの?」
「まぁ、いろいろな」
鳴海は言いにくそうに言葉を濁す。学園祭期間中はどこも告白ラッシュと聞く。女子生徒から逃げてきたのだろうか。容易に想像がつくが、なんとなく面白くない。そりゃモテるに決まっとるやろうけど……って、なにを考えとんねん僕は。あらぬ方向へ舵を切った思考を慌てて振り払う。
それにしたって、どうして今日はこんなにも話してくれるのだろう。まるで何事もなかったかのように。妙な緊張感をはらんだ沈黙がつづくなか、なんと返そうか……と思案していた保科は、禍々しい気配にハッと顔を上げた。
「鳴海先輩、伏せて!」
「えっ、なに、うわっ」
保科が声を張り上げたのと同時に、ガシャン、と歪な音を立ててドアが開いた。目を遣れば、戸口に女が立っている。
鳴海が悲鳴をあげたのと同時に、保科は庇うように鳴海の前に出た。瞬時に構えをとり、印相を結ぶ。鳴海にも悪霊が視えているのかはわからないが、
「な゛る゛み゛さ゛ん゛っ゛」
驚くことに、女が憎々しげに鳴海を呼んだ。
腰まである長い黒髪を逆立て、青白い顔に、耳もとまで裂けたような真っ赤な唇。濃藍の女学生の袴を着ているので、古くはこの学園の生徒だったのかもしれない。
けどコイツ、なんで鳴海先輩の名前を……? というか、そもそも結界のはられたこの学園に、野放しの悪霊が出るなどあり得ない。
保科の印相に気がついた悪霊が、敵意を剥き出しに向かってくる。目眩しのつもりか、周囲が不吉な煙幕に覆われた。鳴海の前で祓いたくはなかったが、背に腹はかえられない。緊急事案だ。
保科は全神経を研ぎ澄ませ、じっと悪霊を見据えて、念じながら唱える。
「保科流刀伐術」
紫色に光る二対の短刀が、保科の両手に顕現した。間髪を容れずに地面を蹴る。
「1式、空討ち」
煙幕もろとも悪霊を斬り裂きながら、
「2式、交差討ち」
核の中心だと思われる部分を徹底的にたたく。刃が核に届いた感触がした。十分な手応えがあった。よし、これは、祓える!
「保科ッ、右だ!」
「……え?」
それは祓えたという慢心からうまれた一瞬の隙だった。断ち切ったはずの悪霊の左手が頭上に見え、なんで? と思ったつぎの瞬間には、体に強い衝撃を受けていた。あっという間に教室の隅まで吹き飛ばされる。
――っ、くそ。しくった!
息をするだけで全身に激痛が走った。脳震盪を起こしかけているのかもしれない。頭がクラクラし、顕現していた刀が消えかかっていた。このままでは鳴海が危ない。そんなことさせてたまるものか。
僕がやらなあかんのや。
保科は己を奮い立たせ、震える手足に力を込める。刹那、煙幕の向こうから聞いたことのない強烈な電撃音がした。えっ、と保科はその場で硬直する。
なんやいまの音……斬撃? 電撃? いや、ありえへん!
目を凝らすも、視界が悪くて状況が把握できない。そこで再び不思議なことが起こる。あれだけ禍々しかった悪霊の気配が、霧が晴れるようにすっかり消え失せた。この感覚ならよく知っている。
さきほどの悪霊が、除霊されたのだ。
いつの間に救援が来たのだろう。保科は咄嗟にそう思った。否、思いたかったのかもしれない。
徐々に視界が鮮明になってくる。
「大丈夫か? 保科」
いまだ座り込んだままの保科のもとに、鳴海が駆け寄ってくる。目の前で膝をつく鳴海に、保科は瞠目した。鳴海の肩には、鳴海の身長よりもさらに大きな躑躅色に発光する銃剣が担がれていた。疑念が確信に変わる。それは、その銃剣は。
「な、るみ先輩、もしかして」
「ああ、そうだ。保科と同じ、ボクも除霊師の候補生だ」
鳴海の衝撃的な告白に、保科は泡を吹いて倒れそうになった。できることなら、このまま気絶してしまいたい。だってあの弦くんが、鳴海先輩が、まさか僕と同じ除霊師の候補生なんて……。
「といっても、銃剣が安定して顕現したのはこれがはじめてなんだがな」
鳴海が自嘲気味に笑う。
「えっ、はじめてであのクラスを祓ったんですか!? 嘘でしょ」
「安定していないだけで、低級除霊の経験なら豊富だ」
鳴海が拗ねたように言う。しかしいくら低級除霊の経験が豊富でも、人語を操る悪霊はわけが違う。意思疎通の取れる悪霊は総じてレベルが高く、本来候補生が祓うには難しい等級のはずなのだ。
「アイツはたぶん中の中……フォルティチュード5くらいでしたよ」
「まぁそんなところか。なにせ無我夢中だったしな。それに、ようやくこいつも発現してくれた。視えてたんだよ、すべてな」
鳴海はそう言いながら片手で前髪をかき上げ、保科との距離を一気に詰めた。顔が近づく。その色を認めて、保科は感嘆の声をあげた。鳴海の目の虹彩にはこれまでになかった十字の紋様が浮かびあがり、さらに瞳孔がワニやネコのように縦長に変形していた。
「こいつはボクの、識別怪獣兵器だ」
識別怪獣兵器――はじめて目にしたが、もちろん知ってはいる。課外授業でも習ったばかりだ。
その昔、まだ日本に怪獣と呼ばれる謎の生命体が多く発生していたころに使用されていた、怪獣の組織をもとに造られた討伐兵器。あるときから怪獣の発生率が極端に減少し、ついにゼロになったことをきっかけに、一度は時の防衛隊によって封印されたが、数十年前に再び日の目を見ることになった。その特性が、対悪霊にも応用可能だと近年の研究により明らかにされたのだ。しかし、識別怪獣兵器は怪獣の組織が使用者の細胞に干渉し、ときに生命に関わる重大な脅威となり得る。使用するには定められた検査を受け、まずは適合者にならなければならなかった。除霊師自体の数が少ないこともあり、この十年は適合者が現れていない……と聞いていたが。
「鳴海先輩が、識別怪獣兵器の適合者?」
「あぁ。こいつのおかげで、悪霊の動きの予測も急所の核もすべてが透視で視えるようになった」
「すごい、そんなことできるんや……そう言えば、さっきの悪霊は鳴海先輩を知っているようでした。学園内に人語を操る悪霊なんて、本来ありえへん。なにか心当たりはあるんですか?」
気になっていたことを問うと、鳴海は首をかしげた。
「さあな……目の前に突然アイツが現れて、追い回されながら、対峙できる場所を探してここまで来た。だがあんな悪霊は視たことがないし、祟られる覚えも――」
話していた鳴海が途中で口を閉ざす。
「……」
「……」
どうしてこれまで普通に会話できていたのだろう。保科は至近距離に鳴海の顔があることに、そのときになってようやく気がついた。識別怪獣兵器を見るためだったとはいえ、二人の距離は拳ほども離れていない。鳴海もこの状況のおかしさに気がついたのだろう。顔を真っ赤にしてわなわなと震えている。
――おいふざけるな、忘れたんか、不用意に近づくなかれや!
保科の脳内で、弦くん推し強火ガチ勢の責め立てる声がした。
「ヒエッ、このボケナスがすんませんでした!」
「いやこちらこそ悪かった!」
二人は距離をとろうと一斉に動いた。息はぴったりだが、タイミングが悪すぎた。
「それでは、皆さんいよいよクライマックスです! 屋上のさらに上、頭上をご覧ください」
窓の向こうから興奮気味のアナウンスが聞こえ、それを合図にグラウンドの投光器が消えた。あたり一帯が暗闇に包まれる。
そこからはまるで寸劇だった。
気を取られた鳴海の手から銃剣が消え、バランスを崩してぐらりと身体が傾いた。保科は支えようと思わず鳴海に手を伸ばす。その手は鳴海の胴体を捉えたようにみえたが、保科はすっかり忘れていた。悪霊に弾き飛ばされた後遺症で、いまだ手足に力が入りにくくなっていたことに。
「おわっ」
結局、支えることは叶わず、倒れてくる鳴海を受け止める形で、鳴海もろとも背後に倒れ込む。鳴海の手が、咄嗟に保科の後頭部を庇う動きをした。
保科が反射的に目をつぶったのと同時に、ガツンと鈍い音がした。ついで、感じたのは顔面へのするどい痛みだ。主に口もとへの。
じんじんした焼けるような痛みのなかにあるやわらかな感触。生温かい血の味。声が、出せない。
保科がおそるおそる目を開けると、世界が一変していた。
――ヒュ〜〜、ドーーンッ
花火がもたらす鮮やかな光に照らされた誰もいない教室で、二人はしばし見つめ合ったままただただ唇を合わせていた。学園のロマンチックな七不思議にはほど遠いアクシデントで、ムードも、覚悟も、技巧もまるでない。キスとは言い難い行為。それでも、まるで離れ方を忘れたか、離れがたいとでもいうかのように二人は唇を合わせつづけた。
二人は見ていなかったが、はるか上空では、学園祭の終わりを告げる祝福の花火が、夜空を埋め尽くすように打ち上がっていた。
つづく
全寮制の学園ものが書きたくてはじめた結果、オバケ退治物語ができあがりました。元天才子役の弦くんと、そんな弦くんに恋ともつかない憧れを抱いていた宗四郎くん。設定はお気に入りです。プロットはある程度できているのに終わる気配がありません。